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南魚沼市
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ホーム市長の部屋市長日記「無罣礙(むーけーげー)」令和3年度「むーけーげー(無罣礙)」 令和4年3月1日

「むーけーげー(無罣礙)」 令和4年3月1日

掲載日:令和4年3月1日更新

北京冬季五輪を見て

くぎ付けになるシーンが何と多かったことか。集大成として大会に臨んだ田中友理恵選手の雄姿。その他に、私は特に二つ。金メダルが決まった平野歩夢(あゆむ)選手に駆け寄り、祝福の抱擁をしたショーン・ホワイト選手。爽やかに王者交代を告げるかのように。かつて石打で二回開催された国際「日本オープン」に参戦していた小学生の彼を、私は現地役員として間近で見ていました。「モンスター」と言われていた少年は、当時「神様」と呼ばれた先達のテリエ・ハーコンセン選手と肩を並べる演技で、大観衆のどよめきは時代の変わり目を予感させるものでした。後に小野塚彩那さんや平野選手などの日本人選手が、世界のひのき舞台に立つ日が来ることなど想像すらできませんでした。時の流れを思いました。

もう一つは、高梨沙羅選手。五輪開会の直前に新潟日報社がすばらしい特集記事を。中之島地区で接骨院を営まれる清水真一さんとの縁についてです。南魚沼ジャンプ少年団で指導する清水さんと旧知である父上は、小学生の高梨選手を預けられ、長期休暇中は当市で練習を重ねていたこと。選手として開眼したのは小学6年生の時、テストジャンパーで参加した塩沢のサマージャンプでの飛躍だったと。今も彼女は、毎年のようにこの大会に参加してくれています。そこに心のつながりがあったのだと改めて感じ入りました。競技役員として協力している市職員がいつも、口をそろえて言うことがあります。「自分の飛躍が終わっても、すべての競技が終わるまで絶対に椅子に座らない。撤収する役員一人ひとりに深くお辞儀し、感謝の言葉をかけてゆく。世界のトップ選手となっても」その姿に心打たれると。誰もが活躍を祈っていましたが、あんなに切ない現実があろうとは。再起を信じているであろう清水さんの願いを心して聞きたい。「市長、子どもが最初に飛ぶスモールサイズのシャンツェ(ジャンプ台)が不可欠だ」と常に。

連綿と続く人のつながり。そのとき限りの一喜一憂や応援ではいけない。私たちにできることは何か。

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