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南魚沼市
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南魚沼市の国指定文化財

掲載日:平成30年6月6日更新

国が指定・選定・登録している文化財について掲載しています。
内容の出典は、国指定文化財データベース(文化庁サイト内:下記関連リンク)です。

重要無形文化財「小千谷縮・越後上布」

名称:小千谷縮・越後上布

ふりがな: おぢやちぢみ・えちごじょうふ

芸能工芸区分:工芸技術

種別:染織

認定区分:保持団体認定

指定年月日:1955年5月12日(昭和30年5月12日)

解説文:

新潟県の越後地方は古来上質の麻織物を産し、中世には京都・大阪方面へ相当量の移出があったと思われ、江戸時代に至って幕府への上納も行なわれた。この時代以降原料の苧麻(ちょま)は会津地方に産する良質のものを使用し、またそれまでの平織(ひらおり)に工夫を加えた縮(ちぢみ)も作られるようになり、生地を薄く軽くつくる技術の向上がみられる。これには越後地方の雪と湿度が大きな生産条件であった。

(写真)居座機織り

(写真)苧引き

(写真)雪さらし

重要無形文化財の指定条件:

  • すべて苧麻を手うみした糸を用いること
  • 絣模様をつける場合は、手くびりによること
  • いざり機で織ること
  • しぼ取りは湯もみ・足ぶみによること
  • さらしは雪さらしによること

これらの技術は、雪国としてのこの地方文化の特質を有するとともに、このように原料から加工技術の全般にわたって純粋に古法を伝えているものはまれであり、貴重な存在である。

重要有形民俗文化財「奉納越後上布幟」

名称:奉納越後上布幟

ふりがな:ほうのうえちごじょうふのぼり

種別:信仰に用いられるもの

員数:24点

指定年月日:1974年2月18日(昭和49年2月18日)

所有者:八幡宮

所有者住所:新潟県南魚沼市仙石

解説文:

機織は、雪籠り期間の女性たちの重要な手仕事であり、その巧拙が女性の評価につながるほどのものであった。これらは、女性たちが機織技術の向上を祈願して、織り出した布を神社に奉納したものである。集落の氏神である十二大明神と、細矢氏の氏神である八幡宮に残されていたものを一括して保存している。文政11年(1828)から明治4年(1871)にいたる奉納年月や、願主名が留め板の表裏に記されていて、当時の生地や機織技術の巧緻を示すものとして貴重であり、また地域的な信仰の一様相を示すものとして重要である。

史跡「坂戸城跡」

名称: 坂戸城跡

ふりがな: さかどじょうあと

種別:史跡

都道府県:新潟県

市区町村:南魚沼市六日町

指定年月日: 1979年3月12日(昭和54年3月12日)

(写真)坂戸城跡石垣

(写真)坂戸山

(写真)実城跡

(写真)長尾政景公墓所

解説文:

城跡のある坂戸山(標高634メートル)は、新潟県の東南部、南魚沼郡のほぼ中央にあり、魚野川をはさんで、三国街道を見下ろす地点に位置する。中世、魚沼郡南部には上田荘があって、鎌倉時代ごろには新田氏一族の支配下に入っており、そのころには、荘の中心地を扼す坂戸山に城郭が築かれていたものと思われるが、本格的な造営は南北朝時代になってからのことである。すなわち、この時代の動乱に際し、北朝方に立った上杉氏は、越後南部から南朝方である新田氏らを逐い、憲顕の時、越後守護となるが、上杉氏の家臣長尾高景の一族のものが、文和年間(1352から1355)に上田荘を領することとなり、坂戸山を居城にしたとされる。

これ以後、上田荘の長尾氏(上田長尾氏)は、守護代の長尾氏と並んで、越後国に重きをなし、その居城である坂戸城は、越後と関東を結ぶ交通路の抑えとして重要な位置を占めるに至った。守護代長尾氏は為景の代に、越後の国人層を糾合して永正4年(1507)守護上杉房能を排斥し、永正7年(1510)には関東管領上杉顕定を長森原に敗死させ越後一国を掌握するが、この過程で、上田長尾氏は守護代長尾氏に対して独自性を保持したものの、為景の死後景虎(上杉謙信)が国主となるにおよび、天文20年(1551)に上田(長尾)政景は景虎に誓詞を提出し、臣下の礼をとるに至った。

謙信の死後、政景の子で、謙信の養子となっていた景勝が春日山城主になると、上田荘出身の「上田衆」が景勝の直臣団を構成するとともに、坂戸城は、春日山城の有力な支城として領国経営の要所となった。慶長3年(1598)、景勝は会津に移封となり、替って越前から堀秀治が入部すると、坂戸城には、秀治の家臣堀直寄が入り、上田で3万石を領した。慶長15年(1610)直寄が信濃国飯山に移された後は、坂戸城は廃絶された。

山頂の坂戸山は魚沼盆地を流れる魚野川と三国川の合流点に向かって半島状に突出しており、北・東・西の三方は急峻をなし、西裾の魚野川が自然の防禦線となっている。西麓の緩斜面地に、城主の居館跡と家臣屋敷跡があり、東西110メートル、南北80メートルの城主居館跡周囲は土塁がめぐり、特に西側正面には、高さ約2メートルの石垣が良好に残存している。なお、家臣屋敷跡の前面、魚野川との間に「埋田(うめた)」と呼ばれる堀跡が残っている。城主居館跡の南方、薬師尾根の中腹には「中屋敷」跡とされる東西40メートル、南北50メートルの区画があり、また、居館跡から東方、山上の尾根に向かう大手道を上った桃の木平には東西30メートル、南北120メートルの「上屋敷」跡がある。

山頂には「本丸」といわれる平坦地があり、ここから北へ延びる尾根上に「二の丸」「三の丸」等の主要郭跡が残っているほか「本丸」から東南搦手方向にも郭跡がみられる。この東南尾根の先端、標高631メートルのところに、「詰の丸」と呼ばれる平坦地があり土塁が残存している。なお、山上尾根の要所に大規模な堀切りがあり、また、「本丸」東方斜面には石垣が残存する。このほか、山頂から西南に派生する尾根の標高500メートル附近に「西の丸」跡があり、ここから尾根先端、寺ヶ鼻の「出丸」跡までの約2キロの間に100基以上の塚が築かれているのが注目される。

以上の城郭遺構は、基本的には上田長尾氏時代の後期、16世紀後半に完成したと思われる繩張りを示すものと見なしうるが、総じて中世山城の典型的な姿を良くとどめており、しかも、山頂「本丸」跡附近や城主居館跡に残る石垣は本遺跡の顕著な遺構である。よって、その歴史的重要性を併せ勘案し、史跡として指定するものである。

重要無形民俗文化財「浦佐毘沙門堂の裸押合」

名称:浦佐毘沙門堂の裸押合

ふりがな:うらさびしゃもんどうのはだかおしあい

種別1:風俗慣習

種別2:娯楽・競技

公開日:毎年3月第一土曜日

保護団体名:浦佐毘沙門堂裸押合大祭委員会

指定年月日:平成30年3月8日

所在都道府県:新潟

その他:本件は、「浦佐毘沙門堂の裸押合の習俗」として平成16年2月6日に選択されている。

(写真)裸押合

(写真)水行

(写真)福物撒与者行列

(写真)ささらすり

解説文:

本件は、新潟県南魚沼市浦佐にある普光寺の毘沙門堂で行われる春先の行事で、寒冷のなか上半身裸の男性たちが除災招福や五穀豊穣等を願って堂内で激しく押合いをする。行事の運営は、浦佐多聞青年団と呼ばれる若者集団が大きな役割を担っており、この地域の青年たちの通過儀礼ともなっている。
毘沙門天の信仰を支える講中も新潟県内を中心に各地にあり、行事に際して、大きなローソクや餅が奉納される。当日は、参加する男性の集団が夕方から境内で水行した後、毘沙門堂に参集し、毘沙門天を祀る内陣前で深夜まで押し合う。押合いの最中には、餅や盃等の福物の撒与があり、これを裸の男性たちが奪い合う。行事の最後には、年男をつとめる井口家の当主が青年団に肩車されて入堂し、五穀豊穣を祈願するササラスリが行われる。
(解説は指定当時のものをもとにしています)

関連資料

【参考資料】文化財の種類、指定・選定・登録

文化財保護法では、文化財を「有形文化財」、「無形文化財」、「民俗文化財」、「記念物」「文化的景観」および「伝統的建造物群」と定義し、これらの文化財のうち、重要なものを重要文化財、史跡名勝天然記念物等として国が指定選定し重点的な保護の対象としています。このほか、保存と活用が特に重要なものを登録し、保護に努めています。

また、無形文化財、無形民俗文化財では、指定のほかに記録作成等の処置を講ずべきものを文化庁長官が選択し、その記録の作成に努めています。

このほか、土地に埋蔵されている文化財(埋蔵文化財)、文化財の保存・修理に欠くことのできない伝統的な技術・技能(文化財保存技術)も保護の対象とされています。

文化財の指定・選定および登録は、文部科学大臣が文化審議会に諮問し、その答申を受けて行うこととされており、その体系は下図「文化財の体系図」のとおりです。

国が指定等を行った文化財の件数は、時代の変遷や新発見、学術的な調査研究の進展等に応じて、着実に増加しています。

国が指定等した文化財については、その種類に応じて、現状変更等に一定の制限が課される一方、修理等に対する国庫補助を行うなど、保存および活用のため必要な各種の処置が講じられています。

関連リンク

国指定文化財データベース(文化庁サイト内)

(図)文化財の保護体系

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