掲載日:令和2年9月1日更新
8月15日
戦後75年。終戦から22年後に生まれた私は、祖父母や親族、地域に多くの戦争体験者がいて、各人からその時代の話を聞く機会が多くあったことは幸いでした。
戦史や従軍記に関心を持っていたからか、たしか中学1年生の夏休み前に先生から「地域のお墓を全部調べてみろ」と宿題を出されたことを思い出します。墓標には戦没者の氏名や階級、年齢、戦死した地名が刻まれていて、灼しゃくねつ熱の南方諸島や極寒の大陸…こんなに遠い地で、どんな気持ちで逝ったのかと思わずにはいられなかった。
長じて行政区の役員などを長く務めさせてもらいましたが、8月15日は毎年、村の鎮守様にある護国碑で慰霊祭を担当。平成も後期になるとご遺族の人数が著しく少なくなるのを目の当たりにしてきました。
遺族会から「来年の70年を節目で最後に」と言われた前年の慰霊祭でのこと、兄が戦死したという村の長老が、つえを頼りに曲がった腰をすっと伸ばして立ち上がり、「私に一曲歌わせてくれ」と願い出てみんなを驚かせました。「これは石打駅頭に大勢の住民が集められ、戦死者の遺骨を迎える際に歌った『英霊を迎える歌』だ。兄の骨箱を抱かされて泣くことも許されず聴いたんだ」と前置きし、吟じるかのように歌われたことをセミの声とともに思い出します。「覚えていてくれ」と私につぶやき別れたのが最後で、次の夏を待てずに逝かれた。
私の村だけでも明治・大正の戦役も含めて50柱を超える名が碑に刻まれ、その中には3人の女性(従軍看護婦)も含まれています。
今、市内では多くの行事が行われなくなり、村々にある慰霊碑の多くがひっそりと立つのみに。このままでいいのか?と言う人もなくはない。
政治や宗教とかではなく、記憶の継承、平和の尊さと不戦の誓いをどう伝えていくか。
少なくとも私たちの世代が風化から守らなければ次はないのではないか、そう感じたお盆でした。