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南魚沼市
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ホーム市長の部屋市長日記「無罣礙(むーけーげー)」令和元年度/平成31年「むーけーげー(無罣礙)」 令和2年2月1日

「むーけーげー(無罣礙)」 令和2年2月1日

掲載日:令和2年2月1日更新

空を仰いで

「経験がない」と誰もが言う異常な少雪に空を仰いでいます。
雪を前提として経済が成り立っている当市では、観光業や除雪作業を担い市民の生活を守る建設業を中心に悲痛な状況となっています。
本稿を書いているのが1月半ば、一日も早く順調な降雪となり、この市報が届く2月には雪国本来の美しさを取り戻してほしいと、切に、切に願っています。

1月15日(水曜日)、石打丸山スキー場の70周年記念祝賀会に参列しました。
終戦間もない昭和24年、市内で最初に開設されたスキー場です。待望のリフト架設は昭和29年。
当初は村人が足踏みでコースを作り、物資乏しい時代にあって、訪れる観光客には家人や隣家の布団を融通し、自前の食材などでできる限りのもてなしをしたそうです。

現在は「インバウンド」や「民泊」「6次産業化」などと言いますが、まさに当地の民宿は地産地消が出発点。外国人を都会人に置き換えれば、今も昔も根本は変わらない。
コシヒカリや地酒の魅力に価値を付け、世に知らしめた大きな発信源はスキー観光にあったと言っていいでしょう。
この産業の原点は「出稼ぎ解消」その一念だったことなど、若い時分から地域の観光協会長の職務に就いていたため、さまざまな地域の歴史について、当時を知る先達から聞かされてきました。

「開設初年にどうやって誘客をしたのか?」上野駅に降り立った村人たちが手にしていたガリ版刷りのチラシ。そこに書かれた今でいうキャッチコピーは「白い雪と白い米」。
復興半ばの首都の雑踏に、当時の若き先輩たちはどんな思いで立っていたのか。心細くも、希望に燃えていたのではないか。今が当たり前ではない、袖を引き宣伝し訴えたのだと。

ぎりぎりの積雪の中、必死の思いで営業を続けるスキー場の祝賀会場に向かう道すがら、すでに鬼籍(きせき)に入った祖父や父、多くの先達の顔が思い出されてならなかったのです。
この状況は深刻だ。しかし、へこたれていては「罰(ばち)が当たる」と、自分に言い聞かせつつ。

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