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ホーム市長の部屋市長日記「無罣礙(むーけーげー)」令和4年度「むーけーげー(無罣礙)」 令和5年2月1日

「むーけーげー(無罣礙)」 令和5年2月1日

掲載日:令和5年2月1日更新

復興の街をみて

あれから6年。平成28年12月22日、午前10時ごろに出火し約30時間延焼の末に鎮火、147棟4ヘクタールを焼失した糸魚川市駅北大火。驚きょう愕がくの思いでテレビニュースを見つめていました。

後にこのコラムで「対岸の火事にあらず。大げさではなく、戦慄を覚える」と書いていますが、家屋密集の六日町市街地に、雪解けを誘う南風にあおられて、街の大半を焼失せしめた明治41年4月の大火をはじめ、近代以降、六日町も三度の大火を経験。まさに他人事ではないのです。

昨年12月10日、糸魚川市主催の「復興事業総合竣工式典」に参列しました。
米田市長は万感の思いだったでしょう。
この火災を当初「人災」と位置付けた国の見解を、地元選出の国会議員などの協力を得て、米田市長は「そうではない。異常な季節風による『自然災害』である」と強く主張し、時の首相に認定変更と「あらゆる制度や法制を駆使して復興させる」と言及させ、そのことが復興を加速し、被災住民を鼓舞 したと今や語り草にもなっています。
そのプロセスに「政治と人の重要性」が何よりも大切だったと市長は声を詰まらせつつ語られました。
大火以来、ずっと防災服姿で中央省庁などさまざまなところを飛び回っておられた姿を、あの長島忠美氏(中越震災時の山古志村長)と重ねて見ていました。
自分だったらどうできるだろう?「恐れ、備えよ!」と聞こえてくるようです。

米田市長から感謝された温かいエピソードをひとつ。
大火の後、二日町の目黒正春さんから「糸魚川のみなさんに役立てていただけるなら」と、保管されていた大量のすばらしい焼き瓦を託されました。糸魚川市にお伝えすると「ぜひ、復興の街並みに」と。
式典の日、会場にほど近い駅北の商店街を歩いてみました。見事に復興をみた雁木通りに美しい甍が連なっていました。
たまらなくうれしくなりました。

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